ある魔術師の記憶 32
普段を知らなければ、いつも見ていなければ、波の変化は判らない。
知っていたはずのことなのに、改めて"目に映ったものしか見ていなかったのだ"と、初めのころに見た、強い波を放つ魔術師の姿を思い出し、その姿に今の魔術師を重ねる。
この二年、僕につきあって無理をしていた。
それが命をより早く削る事と知っていて何故…。
今なら、細工師が僕を避けた裏にあった思いもわかる。
そんな風に考えながら、僕を相手にしている時であっても魔術を使うあの人は活き活きとしていたことを思い出す。
「…僕がここに来てから、実際に目の前で魔術を使事もありましたけれど…」
「…。身体の方は、辛かったのかもしれません。さっきもそうでしたが、足りない分の魔力を蜜玉で補う事もありましたから…。でも、そんなことを気にするような人なら、初めから貴方をここに置いていないと思います」
考えながら言葉を選ぶように口を開いた細工師だったのだけれど、最後だけははっきりと言いきって、こちらを見た。
細工師と魔術師がどのような関係なのかは僕には判らない。
ただ、長く傍にいて、たぶん、お互いに大切に思っているだろう事は判る。
しかし僕に向けられる細工師の目には負の感情はなく『本人は否定するでしょうけれど』と、前置きをして天井を仰ぎ、穏やかな調子で言葉を続ける。
「時にいらいらして、文句を言いながらも、楽しそうでしたよ。貴方が来てから」
こくん、と、頷き、再び溢れそうになる涙に膝に顔を埋めた。
それからまた静かな時間が流れ、いつの間にか細工師は魔術師のそばの椅子へと場所を移している。
溶けた蝋の上でちろちろと揺らめく炎。
時々消えてしまうのではないかと思う程に小さくなるのだけれど、消えることはなく弱々しくも周囲を照らしている。
よく知った気配が、悲しい風を纏ってゆっくりと階段を下りて来るのがわかり、そちらへと顔を向けると、その蝋燭のように、いつもよりもずっと弱々しく見える精霊の姿があった。
"…瓶、持っている?"
聞かれてローブをごそごそと探る。
持ってきたつもりはなかったのだけれど、ポケットの中には蜜玉の入った瓶が倒れるようにして入っていた。
口も閉まっていないその瓶を差し出すように掲げると、精霊はころん、ころん、と蜜玉をその中に入れ、すぅっと再び姿を消す。
僕の手元を見てか、そのことに気がついた細工師は静かにこちらへとやってきて、その場で深々と頭を下げながら、
「フィユリさんも無理をしないで下さい。貴方が消えてしまったら、爺様も、あの人もきっと悲しみます」
と言い、何の姿もない空間を見上げる。
「フィユリさんはまだこのあたりにいらっしゃいますか?」
「…いえ、これだけ残してすぐに…。…さっきは声も聞こえていたのでは…」
言いながら、細工師は一切魔力を扱えないことを思いだした。
「いえ、先ほどは姿は見えていましたけれど、あの姿の時にはいつも"何か言っているみたいだ"と音のようなものが聞こえて思う程度ですから、こちらに向かって話をされているようだったので何かすべきなのだろうかと…。今は姿もわかりませんでしたが、いらしたのですよね?」
細工師の見せた躊躇は僕とは違うところにあったのだと、今更ながら思ったのだけれど、それとあわせて、一度尋ねはしたものの解決しなかった精霊の言葉の意味への疑問がまた浮き上がってきた。