ある魔術師の記憶 35
「…フィユリさん…?」
"何? 変な顔して、まるで夢から醒めていないみたい…"
こちらの心を見透かしたかのような言い回しに、僕は水の滴る前髪が額に張り付いたまま口を半開きにして固まっていた。
自分としては、それほど長い間そうしていた覚えはないのだけれど、僕の様子を心配したのか、フィユリさんは人の形をとってこちらの顔を覗き込む。
"本当にどうしたの? あの子のことを聞いて、街に戻れと言われて…頭が追いついていない? …それとも頭を打ってどうかしちゃった?"
そのあと少し黙り、静かに『お礼がまだだったわね、ありがとう。おかげで大きく壊れずにすんだわ』と言って、笑顔を作ってみせたフィユリさんだったけれど、わざとなのか、知らず知らずにそうなっているのか、その笑顔は悲しげに見えた。
頭の隅でそんなことを考えながらも、自身の記憶が間違っていなかったのだとゆう事がわかり、魔術師の死期が近いこと、ここを出なければならないこと、そのほかにも昨日聞いた話がまとめて頭の中を駆け巡り、感情がどこにあるのかわからないまま、気がつくと髪から滴る水に混じって涙が頬を伝っていた。
"泣いてるの? …とりあえず座りなさい"
いつかのようにフィユリさんの気配に包み込まれ、僕は声も立てず、しばらく涙を流しつづけていた。
「すみません。もう、平気です。少し、聞いても構いませんか?」
僕の声に机を挟んだ位置でフィユリさんは光の玉の様な姿で留まり、静かに返事をした。
"…構わないわ。隠さなければならないようなことももう無いでしょうしね"
「さっき、目が覚めたとき、声をかけられたんです…。まるで昨日何もなかったみたいに」
しばらく黙り、フィユリさんはため息をつく様な気配をみせた。
"…たぶんだけれど、あの子、昨日のことを覚えていないのね。…以前からあったのよ、もう十年程になるかしら…その日の出来事が抜け落ちてしまったり、近い記憶ほど薄れやすくて、覚えておかなければならないものはとにかく記録をして、反芻していた。特にどこかで無理をした日はそうなりやすいみたい…。昨日は話すだけ話して眠ってしまったから、もしかしたら話の中身、全部忘れているかもしれないわ"
「…そんなこと…」
"これからどうするか、少し話しましょうか。そこにもう一人いるから、呼んでくれる?"
フィユリさんに言われて立ち上がり、廊下へと首を伸ばすと、そこにはやや疲れた顔の細工師が立っていた。
「…おはようございます」
「おはようございます。すみません、食事の用意をしたほうがいいかと思って来たのですが、何かお話の最中のようだったので…」
「…フィユリさんが、これからのことを話したいと…」
「私と、ですか?」
"貴方達、とよ"
「三…人で、とゆう事みたいです」
「わかりました。先に食事の用意だけはしてしまっても?」
"そのほうがいいでしょうね"
「それで構わないと」
「下に食事を届けたら、フィユリさんの身体を持って戻るのを手伝っていただけますか?」
"前に使ってた身体から頭だけとってきてくれればいいわ。見た目を気にしなければ問題なく話せるから"
フィユリさんの言葉を細工師に伝えると、細工師は困ったような顔をしたけれど、小さく頷いた。
そして僕たちは何を話すでもなく、ぎこちない距離感のまま、朝食を作る為に二人で並んで手を動かしはじめた。