ノクイアケス

ノクイアケスとゆう世界を舞台にした空想小説。

ある魔術師の記憶 10

「…殴って悪かったわ。まぁ、歯が折れなかっただけ良かったと思って」

悪いと言いながら、そう思ってもいなさそうな魔術師は自分の唇を引き、歯の足りない口の中を見せた。

「さ、て、と。…荷物は近いうちに取りに行ってもらうから、そのまま預かっていて。…自分のことを"知っている"人間と話したければ店にいらっしゃい。頭のオカシナ魔術師でよければそのくらいなら相手するわ」

頭のオカシナ、とゆう形容はよく知りもしない相手を叱り付けるような物言いとともに殴ったかとおもえば、泣かれておろおろし、それから大して経たないうちに悪びれもせず冗談でもないだろう自分本位な言葉を口にする魔術師を前にしてはわざわざ否定する必要はなさそうにも感じられるのだけれど、その表現だけでは本質にとどかないような、何故だかそんなことを思いながら、僕は口を開くこともなく、離れていく魔術師と精霊ただぼんやりと見送った。

 

魔術師がその場を後にしてから、僕はひとり、ずいぶんと長い間、気が抜けたように木に背中を預けていた。

…全部知られていたのだとしたら…泣くだけ泣いて、それまで、絶対に口にするものかと思っていたことを口にして、じゃあそれから何をしたらいいのだろう。

思考も身体も麻痺したような感覚の中、殴られた頬が鈍く痛む。

このまま溶けてなくなりたい…少しだけそんなことを考えて、そのままずるずると、だらしなく横たわり、草に埋もれて顔を地面に擦り付けるようにして目を閉じた。

寝不足が続いていた事もあり、いつの間にか眠りに落ちて、気がついたときには日が傾きはじめていた。

家に帰りたくもないのだけれど、だからといって行く当てもなく、のそのそと身体を起こし、町に向かっていく。

先生を送った塔がいつもより大きく見える気がした。

 

帰り着いた家で待っていたのは疲れた顔の幼なじみとその一番上のお姉さんで、簡単な挨拶が済むと、何故か一晩中塔に居たことが知られていて礼を言われた。

「…いえ、別に…勝手にした事ですから」

朝の事も知られているのだろうし、骨を撒くときも、その後も、今日一日僕の姿がなかったことも分かっているのだろうけれど、お姉さんはそれには一切触れず、先生によく似た顔で微笑んだ。

「それでも、私たちは嬉しかったの…ただ、今日訪ねさせてもらったのはそれとは別、突然こんな話をしていいのか判らないし、されても困るかもしれないけれど、父の工房のことで少しいいかしら…」

要約すれば、建物から蔵書、そのほか細々しいものまで含めて全てを譲り受けるつもりはあるか、とゆう事を尋ねられ、工房に出入りしていた者達も幼なじみも"一番目をかけられていたのは僕"と口を揃えたらしいことに頭の後ろから背中のあたりが引きつるように強張った。

お姉さんは、自分達は魔術師として生きるつもりはない、年齢的にはまだ早いだろうけれどその気があるのなら数年は今のままの状態で工房を残してもいい、と続けて話し、幼なじみの目がこちらに向いている。

魔術師の工房は弟子が継ぐ、とゆうのは一般的な事なのだけれど、魔術の使えない僕がその言葉に頷ける訳もなく、二人の目を見ることも出来ずに僕は"そのつもりはない"とゆう意味で首を横に振った。

「…私はもうここの街を離れているけれど、妹達のこともあるし、もうしばらく…」

「…僕には先生の工房は継げません。時間が経って考えがかわるとゆう事もありません…」

本当ならもっと言いようがあるはずだ、と言った後で思ったのだけれど、その時の僕にはそれだけを口にするのが精一杯で、顔をあげることもなく、深々と頭を下げ、もう何もいわないでほしい、とそんなことを考えていた。