市の朝
夜が明ける前から宿の一階は多くの人で賑わい、主人や女将をはじめそこで働いているもの達は休む間もなく動き続けている。
夜中に一度は目を覚ましたシャトだったが、そのままオーリスの隣で眠りつづけ、女将達が動き出すと間もなく目を覚ました。
庭の椅子でオーリスを撫でながら皆の働く姿をぼんやりと眺めるシャトに、女将は小さなカップに注いだ熱いお茶を差し出すとその頬から首の当たりに手を当て『熱がある訳じゃないわね』とだけ言ってまた厨房へ戻っていく。
「今日市の日だったね…」
シャトの首筋に擦り寄ったオーリスはお茶の匂いをかぐように鼻を動かしたかと思うと、鼻先を空に向け風に乗る様々な匂いを確かめるように目を細めた。
宿の食堂が市の出店者から外から市を目当てにやって来た泊まり客へとうつった頃になって二階の一室の窓が勢いよく開かれ、そこから身を乗り出すように姿を見せたシアンがシャトに手を振った。
「おはよーう。朝から賑やかだなぁ…!」
街の賑わいに耳を傾けながら大きく伸びをしたシアンは、そのまま窓から庭に飛び降りたかと思うと大きな欠伸とともにシャトの元に歩み寄る。
「まだ早いよな? いつもこうなの?」
「いいえ、私も忘れていたんですが今日は月に一度の市の日なんです」
「市?」
「はい、市の日には何でも売っていると言われています。人も多いので昼頃には大半のお店が空になるみたいですけれど」
シアンは再び欠伸をするととっと椅子に座り、『昨日聞かれたのはそれでかぁ…』と女将に尋ねられた言葉を思い出し空を見上げた。
「出る前に覗きに行っていいかな?」
「私は構いません。まだ市の開始には時間があるでしょうから先に食事になさってもいいと思いますよ」
「カティーナが起きて来るの待って一緒に食べようよ」
シャトはシアンの言葉にオーリスを見ると、
「オーリスのご飯もあるので私は少し出てきます、カティーナさんが起きていらしたら先に召し上がってください」
と言って立ち上がり、庭の端に無造作に置かれていたリュックを手に取る。
そして小さく頭を下げると木戸の方へと向かい、言葉通りオーリスとともに外へと出て行ってしまった。
シアンはこめかみの当たりをかりかりと掻き、その後ろ姿に『いってらっしゃい』と声をかけるが、姿が見えなくなると"なんかまずかったかな"とでも言うようにため息をつき、二階の窓辺に視線をうつす。
そこに見つけたカティーナの顔に向かってひらひらと手を振って見せるシアンだったが、その表情には笑顔とともにもやっとしたものが見え隠れしていた。
「どうかなさったんですか?」
ローブを取り込むために窓を開けたカティーナに挨拶のあとでそう尋ねられたシアンは、『んーなんでもない』とシャトが出て行った木戸の方を再び見つめたあとで勢いよく立ち上がり、『腹減ったな!』とカティーナに下りて来るように促すつもりで口にした。